clock-up-blog

go-mi-tech

アダルト・チルドレンの行く末の一例

やあ (´・ω・`)
こんな駄文へ足を運ばせてしまってすまないね。
このテキーラはサービスだから、まず飲んで落ち着いて欲しい。

アダルト・チルドレンという言葉をよく目にする時期があった。僕もアダルト・チルドレンのうちの一人だったと思う。」…という書き出しで文章を書き始めたんだけど、改めてググってみたら実は言葉の意味をずっと勘違いしていたんだ。すまない。

大人並みまたはそれ以上に達観している(と本人は錯覚している)子供たちのことをアダルト・チルドレンと呼ぶのだと僕はずっと思っていたのだけど。

アダルトチルドレン - Wikipedia

一般には、「親からの虐待」「アルコール依存症の親がいる家庭」「家庭問題を持つ家族の下」で育ち、その体験が成人になっても心理的外傷(トラウマ)として残っている人をいう。破滅的、完璧主義、対人関係が不得意といった特徴があり、成人後も無意識裏に実生活や人間関係の構築に、深刻な影響を及ぼしている。信田さよ子によれば、ACは自己認知の問題であり、診断的に与えられる言葉ではない。

Oh... そっちか。


それはそれとしてここ最近での心境の変化を軸に物思いに耽った内容を言語化したのでここに残しておこうと思う。


言葉の解釈は間違っていたのだけど、どちらにしろ結局僕はアダルト・チルドレンのうちの一人には違いなかった。要因のひとつはインターネットだったと思う(本当は家庭の問題が大きいんだけどインターネットというふわふわした概念を敵に回したほうがよっぽど体裁がマシなのでそっちに的を絞ることにする)。

僕は中学3年の頃にパソコンを触り始め、高校低学年の頃は主にパソコン通信を用いて情報収集や情報交換を行っていた。高校高学年の頃にはインターネットも普及しだしていた記憶がある。

そこで僕らが得ていたものは、より新鮮で恣意が適用されにくく質も量も世間一般の平均に比べると良い部類の情報であったと思う。

そんなわけだから、そのようなツールを使っていない平均的な人間たちに比べると、僕や僕に似たタイプの人間たちは情報階級的な概念においては上のほうに位置していた。そのような状況になるとなんだか子供である自分のほうが世間の平均的な大人たちよりも力量としては強者側に立っているように錯覚してしまうのは自然な現象だったと思う。そんなわけでその時点では僕は冒頭で書いた間違った意味のほうのアダルト・チルドレンだった。ある特定の大人たちを完全に見下していた。


ただ、当たり前の話なんだけど世界は情報が全てではない。情報化社会という呼称の通りに情報の重みは年々増しているものの、やはり未だにそれが全てではないし、将来に渡ってもそれが全てになる未来は来ない。

人間には感情があるし地球には環境がある。
歴史には文脈があるし生命にも遺物にも尊厳がある。
欠損にこそ美を見出す価値観さえある。


何が言いたいかというと、情報の質や量の優位性なんて数ある価値のうちの些細な一要素に過ぎず、取るに足らないものであり、実際に人間から見えるこの世界に存在する要素というのは子供たちが想像する以上に複雑で、人の成長を、筋肉とか情報量の蓄積とかそういった線形の要素で捉えるのがそもそも間違いで、もっと多次元で曖昧な概念として捉えなければならない。…という当たり前のことなんだけど。当たり前に見えてなかなかそこにたどり着くのが難しい。

人は合理的判断以外の多様で曖昧で場合によっては不条理でさえある様式を社会活動の中で身に付けながら「成長」していく。明確なラインが存在するわけではないけど、そういう多様な価値観を、妥協を交えながら理解し併合していくことが「大人になる」ことなんだと僕は理解している。

その点、僕は既に自分の精神性が大人またはそれ以上だと錯覚してしまっていたから、それを変えてまで併合していくことにずっと違和感があり反発していた。身体が大人になってもそれは変わらなかった。

錯覚を払拭できないような人間の精神状態は言ってみれば所詮未成熟な子供に過ぎない。そんな未成熟でありながらも時間の経過とともに身体は勝手に大人になっていく。そんな僕は、気づけば本来の一般的な意味のほうのアダルト・チルドレンの一人になってしまっていた。


人との関わり方が平均的なそれに近ければ近いほど併合に対する抵抗は小さい、というかむしろ併合による幸福の上昇度が高いはずであったから、そのあたりの諸条件が平均的でありさえすれば抵抗なく併合していたであろうとも思う。残念ながら僕の家庭の居心地は最悪であったしその影響でそれ以外の人間との関わりも苦手であったから、そんなわけで併合に失敗した。そっちが根本の要因であることは分かっているのだけど、あまり暗い話はしたくないのでそれはそれとして一旦スルーさせて欲しい。


ただ、「大人になりたくない。子供のままでずっといたい」そういう願望を多くの人がいつかどこかで持っていたことも事実だと思う。

大人になることにはデメリットが多いから、欲望のみに従うなら皆ずっと子供のまま生きるのが自然なのではないかとも思う。それでも多くの人が大人になるのは、「必要に駆られて」なんだろう。


逆にいうと必要でなければ大人にならなくても良いんじゃないかとも思う。

子供から大人になることを「成長」と称してしまうこと自体が実はおこがましいことで、その背景には大人側が大人であることを正当化するために「上下」の関係を定義しているようなエゴが見え隠れする。

本当は「変化」と称するのがより誠実な表現だと思う。


僕にはまだまだ子供の要素が多く残り続けているけど、日々大人への変化が必要な要素を見つける度にマス目をひとつひとつ塗りつぶすように切り替えを行っている。簡単なことではないけど必要なことだから行っているし、切り替えに失敗することもしばしばある。

ただ、時に何かしらへの併合は必要であるにしろ、できる限りそれを妥協とはみなしたくない。

妥協は自身の思想軸をぐらつかせる行為だから良くない。たとえ妥協的に見える行動であっても後付けでも良いから合理的な筋の通る言い訳を作り、自分の中で納得しておくことが大事だと思っている。そういうものが精神のバランスを保つ柱になる。妥協の正当化、やっていきましょう。


ところで未来の人間の行く末の想像なのだけど、インターネットによる情報取捨選択の自由により人間の多様性はこれからさらに増していって、結果的にできあがる人間の集団は今よりももっともっと統率の取りにくいめんどくさいものになっていくだろうな、と思う。

でもそういうのが人間味があって良いと思う。


今回のこの文章の中にはいくつもの矛盾やダブルスタンダードを残しているけど、最近はそういったずるい行為を他者に対しても自身に対しても許容できるようになった。こういったことの積み重ねがたぶん大人になるってことなんだろうなぁ。

ステレオタイプな大人を揶揄する表現として「ずるい」とか「汚い」とかいった言葉がありますが、見方や考え方を変えれば「深み」ともとれるんです。正当化やごまかしの濫用は悪ですが節度のある利用は時に平和を生みます。うまく匙加減を測っていきましょう。


本エントリのタイトルを「アダルト・チルドレンの行く末の一例」としましたが、その要点をどこに置いたかという説明を最後にしておきますが、要点はこの文章全体です。かつでアダルト・チルドレンであり今もたぶんアダルト・チルドレンである僕自身は年齢を経てこんな感じの文章を書くような感じの変化を遂げました。


ちなみにそもそも最近だとアダルト・チルドレンなんていう古臭い言葉は使われなくなって「発達障害」などの言葉が使われがちな傾向がありますが、そういう弱者っぽさが前面に出た言葉は僕は好きでないという理由で、僕はそういう言葉を滅多に使わないし、自身がそういう症例にあたると認めるつもりもありません。

});